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更新日時 03/03/21 7:35
本日のデータ
日付
3月19日
天気
晴時々曇
旅行日数
252 日目
体調
良好
本日の移動
 熊本市〜田原坂〜松尾市〜大牟田市
走行距離
49.1 km   
現在地
福岡県大牟田市
総走行距離
10365.6 km   
宿泊地
炭鉱記念公園
今日の出費
食費
120 円    
宿泊費
0 円    
観光費
420 円    
雑費
0 円    
経費詳細

 観光費:田原坂公園・宮崎兄弟記念館




昔の面影

 時代の流れ・・・ どんな激戦も繁栄もどんどん過去の物としてしまう。逆に辛い思い出を忘れさせてもくれるが、でも、寂しいものだ。今日はそんな時代の移り変わりを見て、せめて記録として残して行きたい、そう強く思わされた。

 今朝はkazuさん宅の布団で気持ちよく起床、そう言いたい所だが、昨夜は会話に弾んでしまい就寝は2時過ぎだったこともあり、起きるのが辛い!最近ちょっと就寝時間が少ない日が連続している為に今日は拍車をかけて辛く、それでも眠い目を擦りながら必死で7時に起床した。でも珈琲と食事を頂き、おかげで復活!kazuさんがメール管理ソフトをくれた事もあり、8時の出発ぎりぎりまでPUと向き合っていた。

 こうしてkazuさんと固い握手を交わし、そして今度はお互い旅人同士の再会を願って出発した。ありがとうございました。(今朝の写真撮るのを忘れてしまった・・・(T_T)) こうしてまずは田原坂を目指して3号〜208号と進む。ちなみに田原坂は西南戦争での最大の激戦区となったところである。そんな史跡を訪ねて向かった所は田原坂公園で、その道中、官軍、薩軍の墓が至る所にあり、そしてそれらの墓は、官軍は個々に墓石が立てられ、名前、所属、なくなった場所、日にちがその墓石に刻まれていたが、薩軍は対象的に一つまとめて大きな碑(墓石)が立つのみであった。その違いは勝利者か、敗軍かにあるらしい。それでも、この大きな違いには驚いた。


田原坂にて官軍の墓


田原坂にて薩軍の墓


田原坂付近

 それら各墓を見学し、田原坂から激戦の続いただろう、今は静かな山々を眺めながら公園内へと入った。そこには大きな資料館があり、その一部が以前から残る倉跡が使われていた。その倉には生々しく今も銃痕跡がのこり、そしてはっきりと銃弾も見ることが出来た。それら、今も残る傷跡を見ながら資料館へと入った。中には4斤砲(大砲)をはじめ、数々の豊富な資料が展示され見応えは充分!さらに説明ビデオもあり、1時間以上掛けて資料館をじっくり見学した。

 そのあと、公園内を散策、西南戦争で亡くなった1万人以上の方々の名が刻んである慰霊塔が立ち、その果てしなく続く名前の列に戦争の激しさが伝わってくる。そして今、立っているこの静かな地が最大の激戦区だとは信じられないものがあった。時代の流れが記録から遺物まで全てを風化させていってしまうのだろう。


西南戦争慰霊塔


西南戦争の碑


田原坂
銃痕跡の残る倉



お弁当を頂く


激戦区・田原坂

 そんな公園内にある観光ガイドさんの務める小さな休憩室?を借りてそこでちょっとPCタイム。昨夜書けなかった日記をこの場所を快く貸して頂いて書き始めた。また観光ガイドさんが務める場所でもあるために、この激戦についていろいろ詳しく聞くこともできた。ありがとうございました。そのあと、公園のベンチでkazuさん宅で頂いたお弁当をいただいて、12時半頃、公園を出発した。

 この場所は田原坂の峠付近にあり、この先は細い下り道のなった。この坂でも両軍の死闘が続いたらしい。とくに官軍側が悩まされた。この急坂と細い道、攻め倦んでただただ死体の山を積み上げていってしまった場所でもあるらしい。今でのそんな細い急な道をうかがえることはできたが、でも辺りの景色はほとんどがみかん畑に変わっていた。


宮崎兄弟旧家


旧家内にて
孫文訪問を再現

 208号線へと戻り、今度は松尾市街を目指した。ここには宮崎兄弟の旧家があるらしい。ただ、兄弟と言っても、自分はその中のひとり、”宮崎八郎”という西南戦争で協同隊を組織して戦死して行ったこの人しか知らない。あとはどんな兄弟だったのだろうか。こういう名で展示されている以上、よほどの人なのだろうとワクワクしながらその旧家へと入った。大きな資料館も併設されていて、まずはそこから見学した。そして館長の薦めでまずはそのビデオを見ることに。あとの兄弟のことについて何も知らなかった私でもよく分かる30分のビデオ内容であった。その中でも驚いたのが、12人の兄弟(1人養子含む)の中で、そのうち4人もの方が今も名を残していることであった。それもそれぞれ違う方向での志に向かって活躍していたのだ。それら4人の資料が豊富でここでも長居してしまった。最後に残された旧家も見学して15時頃、後にした。

 このあと、ここからさほど遠くない、万田抗跡へと行って見た。今はどこも稼動してなく、そんな跡地に建てられた万田炭鉱館へと見学。料金は嬉しいことに無料!さらに館長らしき方が詳しくこの炭鉱の歴史について語ってくれた。元々はこの炭鉱で働いていたとのことで、その言葉のひとつひとつが生々しく伝わってくる。その過酷さ、危険さ、そして逆のそのときの賑わい、繁栄、全て今この場には失われてしまったものだ。でも、そんな炭鉱も細々と最近まで維持管理されていた。その最近とは平成9年の話で、その場所も今は廃墟と化してしまい、社宅などは全て取り壊されてしまっていた。そんな中、唯一残り、そして保存されたのが、万田坑の二坑ヤグラで今は廃墟と化していながらも、その繁栄ぶりを今に伝えていた。約1時間ほど詳しく炭鉱について説明して頂いて、資料館を後にし、実際の目でその時代の移り変わりを見るべく辺りを散策しに向かった。


万田炭鉱館


埋められたプール


万田坑跡



廃墟の社宅跡

 まず向かったのがすぐ目の前にある公園であった。そこには山ノ神社という炭鉱の神が奉られた神社があるはずなのだが、いくら探してもどこにもなく、ただ神社跡にもみえる竹薮で覆われた敷地がそこにあるだけであった。またそこにはプール跡もあり、すっかり埋められてしまっていた寂しげな姿であった。そして肝心の二坑ヤグラは先にも書いた通り廃墟と化した姿で聳え立っていた。ただ、そんな所からでも活気ある姿が目に浮かんだ。そのまわり景色のせいもあるかもしれない。辺りは社宅跡であろう荒れた敷地が無数にあり、そしてそれらはレンガ造りの塀で囲われていた。また鉄道の線路跡も今もくっきりと確認でき、それらの昔の様子を想像すると自然とその活気を見ることができた。

 この後は県境を越えて大牟田市まで走り、そこにも同じ三池炭鉱の跡地であるところに宮浦炭鉱記念公園が作られていた。そこには野外展示場があり、後年に使用された大型重機が並べられ展示されていた。また炭鉱列車、煙突なども残されていて、当時の様子がうかがえた。ただ、この周囲は線路を残すのみであとはすっかり工場地帯へと変わっていて、昔の面影はなく時代の流れが感じられた。

 さて、こうして炭鉱の見学であっという間に時は過ぎ、気付けば17時をとっくにまわっていた。この先でどこか公園を見つけて野宿を考えていたが、この公園も小さいながらも悪くなく野宿できそうであった。この先、あるかないか分からない野宿地よりもここを選ぶことにして、日没まで小説を読み過ごすことにした。それからテント設営後、寝不足もあって、HP更新作業を進めないまま寝てしまった。20時ごろであった。


炭鉱記念公園
炭鉱重機たちが並ぶ


炭鉱列車


炭鉱の巨大な煙突

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