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更新日時 03/05/25 20:53
本日のデータ
日付
5月2O日
天気
旅行日数
314 日目
体調
良好
本日の移動
 入善町〜親不知海岸〜糸魚川市
走行距離
62.6 km   
現在地
新潟県糸魚川市
総走行距離
13505.8 km   
宿泊地
塩の道資料館
今日の出費
食費
2226 円    
宿泊費
0 円    
観光費
0 円    
雑費
303 円    
経費詳細

 食費:登山用食材・米含む
 雑費:ガスボン×3・雑貨




天下の剣


北日本新聞
ありがとうございました

 いろんなチャリダーから話に聞いていた富山と新潟を結ぶ”親不知海岸”。もちろん内容は「もう2度と通りたくない!」、「死ぬ思いだった。」という恐怖の言葉・・・ この道には歩道がなく、またトンネルの多く連なる道幅の狭い道。それでいて大型車行き交う幹線道路である。そんなことから恐怖のあまり引き返すチャリダーもいたという話をつい先日も聞いたばかりであった。昔この街道は死地に赴くほどの難所であり、無事に通過したときには嬉しさのあまり”浄土”へ来たかと思えたほどであったという。そんな街道は今もチャリダーや徒歩にとっては変わりない難所の道であった。

 その街道を今日通過する予定だ。不安もあるが、逆に「どれほどの物か?!」という見てみたい好奇心もあり、なんだかワクワクしている自分がいた。「どんな道だろう。」、6時に起床し、朝からそればかりを考えながら、残りわずかなHP更新と食事を済ませて、7時半ごろキャンプ場を出発した。


じょうのべま遺跡にて

 国道を避け、静かな海岸線の農道を走ること約30分、史跡の看板に惹かれて”じょうのべま遺跡”へと立ち寄よったりと、今日は時間にも余裕があったことからのんびろ走行♪ゆとりが充分あるだけに、見るもの全てが新鮮に見えて楽しく、自転車を漕ぐのも軽快だ。ただ、天気が予報に反して重たくどんよりとしていた。今朝もキャンプ場で通り雨に降られてしまったが、自炊場にテントを張ったおかげで助かった。この先、雨に降られなければよいのだが・・・ 

 さすが国指定史跡だけに、あたり一面の田園の中ではあるが、整備は充実していて、トイレはもちろん大きな休憩舎まで建てられていた。遺跡も芝生広場として公開されていたのだが、さすがに場所がら訪れる人はほとんんど居なさそうであった。ちなみにここは平安時代の史跡で荘園の管理所ではないかと言われている。このような史跡は全国にも数少ないそうで、そのため国指定史跡を受け、永久に保存しようとこのような公園が作られた。

 海と山がどんどん迫ってくる。先ほどまで広がっていた田園地帯はみるみる狭まり、あっという間に山と海に囲まれてしまい難所である”親不知”が近づきつつあることを実感させられた。すでに頭上にあると言っていいほどの山々の威圧は凄まじく、この先の不安、そして好奇心がさらに掻き立てられた。ひと漕ぎひと漕ぎが死地へと赴くように感じさえしたほどだ。


ヒスイ海岸


やっぱりヒスイを探す♪

 でも、そんな難所を前にちょっと夢ある海岸で一休み。もう名前からして惹かれる”ヒスイ海岸”。その名前の通りヒスイの原石が打寄せるという。‘01年には数十万円相当のヒスイの原石が発見されたともいう。まさに日本のゴールドラッシュで、毎日、ヒスイを求め訪れる人が絶えないという。現にこの日もまだ9時前というのに、引っ切り無しにカップルや観光客が訪れ散策していた。もちろん私もその中のひとり。30分ほど静かな波打ち際を歩いたが、やっぱりそう簡単に見つかるものではなかった。ただ、こうして夢もって歩いた時間がとても楽しく、それだけに感謝したくなる海岸であった。

 この先、海と山の間には道を通すだけのもう僅かな土地しかない。そんな地形からも難所が近いことを感じさせてくれたが、さらには残る史跡からも覗えた。富山〜新潟唯一の街道だけに、この狭まった難所に関所が設けられ、また、難所の通過を伝え喜ばせた松も史跡として残っていた。また県境には富山県唯一現存する一里塚もあり、街道雰囲気を高めてくれていた。

 市振関所跡:江戸時代初期の幕府は重要な政策の一環として全国に53の関所を設け人々の行き来を監視し取り締まった。ここはその中の重要23関のひとつだそうだ。

 境一里塚:1609年、2代将軍秀忠の時代に江戸日本橋を起点として5幾7道に道路の里程を知らせる交通施設として1里毎に設置したもの。この境塚は加賀藩領内では第一号であり、今においても富山県内で当時のまま残る唯一の塚だそうだ。


境一里塚


市振関所跡にて


迫る絶壁!親不知

 関所を抜けるといよいよ難所へと入った。もう道をも通す隙間はなく、道は断崖を切り崩して半トンネル状の道がアップダウンを加えながら続いていた。旧街道はこの遥か眼下の波打ち際を歩いたという。何人もの命を奪いさったその海岸と呼べるところもない絶壁を時折見下ろしながら、路肩のない国道を自分も同じように命を削りながら進むことになった。ただ、思っていたよりは恐怖心は湧き出てこなかった。どちらかというと、興味津々で常にワクワクしていた。また道路の方もいままで走ってきた難路に比べれば”まだまだ”といったところもあった。でも、もちろん怖いのはあたりまえ。「これくらいなら!」と、自分に言い聞かせながらも、後ろから迫る大型とトラックに対し「ちゃんと避けてくれよ!」とただひたすら祈り足早に漕ぎ進んでいった。

 しばらく進むとトンネルへと入る。だがここは旧道を選択。道こそ荒れてはいるが静かで、いかにも”絶壁を削り苦労して作った道”というのが伝わってくる道であった。この削り開いた岩壁には「如砥如矢」などを始めさまざまな文字が刻まれていた。これは明治16年、すべて人力での苦労の末の開通に歓喜し刻んだ文字で、「砥石のように滑らかで、矢のように早く通れる。」という意味だそうだ。そんな文字を見ていると当時の歓喜の姿が目の前に甦る思いがした。ちなみにこの旧道は今は一部、公園として整備され、さまざまな親不知に関する情報が書かれていた。また、日本山岳の父”ウェストン”像も据えられていた。

 親不知の名前の由来:波が荒くて、親は子を、子は親をかえりみる暇もないほどの危険な海岸をいうことからこの名前がつけられた説と、もうひとつ、今から約800年の源平盛衰の時代、越後の五百刈村へ流された夫、池大納言平頼盛の後を追って、この地を通りがかった夫人が、懐の愛児を波にさらわれ、悲嘆のあまりにこの歌をよみました。「親しらず子はこの浦の波まくら 越後の磯のあわと消えゆく」、この歌が地名の由来になったとも言われている。私はこの親不知の名前を聞いたとき、難所ということもあって前者だと疑いもなく思っていたのだが、他にも説があったことには正直ビックリした。

 ウォルター・ウェストン:明治22年から大正7年までの間に3度来日し、その都度、探検登山を日本アルプスをはじめ各地で行い、日本の近代登山に貢献した人である。明治27年この親不知を訪ね、その景観に感動したそうだ。

 親不知海岸は中盤へと入る。さすがに集中力が途切れだすが、でもこの先は所々に歩道が設けられている箇所があり、そんなところで一休みしながらのんびり進む。ちょっと驚く半海上インター(インター内になんと信号があるのにはビックリ!)を過ぎると道の駅があり、そこでは海の幸がズラリと並んでいた。そしてレストランの定食もなかなか格安!さっそく、っと行きたいところだったが、こんなところがあるとは知らずに、ちょっと前に腹ごしらえしてしまった後であった。悔しいが、目を瞑って道の駅を後にして、ま恐怖街道へと走った。でもあとはほとんど下りで、車の邪魔にはなってしまったが、道のど真ん中をやむなく走り抜けて無事にまた、海と山が離れだし市街地へと入っていった。


景勝地・親不知海岸


難所には「如砥如矢」


ウェストン像と仲良く♪
(親不知にて)


まだまだ続く絶壁


高速はいよいよ海上を


狭い路肩を走る


 「ふぅー」と、一息つく前に、まだまだ今日やることが残っていた。それは明日の登山へ向けての準備&登山口まで行かなければ行けないという重労働が待っていた。まずは麓の糸魚川市でスーパー散策。主にガスボンベと米を探したのだが、2kgの無洗米、そして1本ばら売りのガス、それが3店舗も大型スーパーをまわったが収穫なく、仕方なく通常米とガス3本セット購入・・・ 通常米は安くていいのだが、やはり登山には水が限られることが多く不向きなのだ。でも、なければ仕方がない。気を取り直して、いよいよ登山口へ向け158号を上っていく。そんな道中、ちょっと面白そうな観光地発見!それは”フォッサマグナ”が実際に見れるということで興味を惹かれさっそく遊歩道散策へ!往復約30分の道程を歩き実際にその断層を見たのだが、「うーん・・・」あまり実感はわかない。ただ、今自分はプレートの境目に立っているのだと思うと不思議な感じがしたことは確かであった。この後、日本一という枕状溶岩も見たが、これこそ、なにが凄いのかさっぱり分からずに、なんだか、ちょっと拍子抜けの観光になってしまった。

 フォッサマグナ:大きな溝という意味だそうで、日本の地質構造上、東日本と西日本を分ける重要な地帯で、あのナウマン像を発見したナウマン氏が発見し命名したそうだ。

 今日の寝床、明日の登山のために出来るだけ登山口に近いところ、できればその登山口と行きたいところだが、その雨飾温泉まではダートもある登りでとても自転車では不可、そのため、その手前のスキー場か、塩の道資料館を予定していた。そこまでの道程はそれほど急な坂もなく、また距離もあっという間ですぐに到着してしまった。塩の道資料館、その内容も気になったためにまずはそこへ行ってみたのだが、建物を見てビックリ!寝床にできないかな?!そんな期待も含めて向った先なのだが、そこはなんと茅葺屋根の民家。とても軒下などはない。そしてさらに悔しいことに閉館は16時。今はその丁度16時なのだ。カブに乗った管理人らしきおじさんは颯爽と去っていってしまった。誰も居なくなったこの民家前で呆然。今日、一日曇り空の重い空模様だったが、さらにそれに追い討ちをかけて、今は霧雨まで降り始めていた。もう移動する気にもなれず、また掘っ立て小屋のトイレはあったことから、もう寝床はここと決め、この茅葺民家の前でテントを張り、なんだか寂しい夜を迎えた。携帯は圏外。唯一の救いはラジオが入ったことで、流れる”FM新潟”の放送に、「とうとう新潟まで来たんだ。」そんな実感を噛み締めながらHPの日記書き作業を進めていたが、1本バッテリー切れを期に、また睡魔も刻々と襲ってきた為に22時半ごろ就寝した。

 まだ標高は250mほど・・・ 明日、一気に2000m近くまで登らないと行けないと思うとやや気が重たい・・・



フォッサマグナ地点


枕状溶岩


塩の道資料館
今日ここで野宿です・・・


 ★今日のお食事♪
 ・朝食 : ラーメン
 ・昼食 : コンビニ弁当・パイナップル
 ・夕食 : コロッケパン・菓子パン・ラーメン
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