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更新日時 03/09/27 19:33
本日のデータ
日付
9月26日
天気
曇のち晴
旅行日数
446日目
体調
良好
本日の移動
 盛岡市〜紫波町〜大迫町
走行距離
56.6 km   
現在地
岩手県大迫町
総走行距離
20040.0 km   
宿泊地
道の駅・早池峰山
今日の出費
食費
1780 円    
宿泊費
0 円    
観光費
350 円    
雑費
4893 円    
経費詳細

 観光費:原敬記念館(200円)・郷土資料館(150円)
 雑費:小説×2・カメラフィルム




我が4畳半


総理・原敬の生家

 見たことも会った事もない人、さらには故人であり、自分から見れば遥か大昔の人であっても、その人を見、調べ、足跡を訪ねれば不思議と自分の中で実体化して行き、いくら過去の人であっても目の前で私に向けて演説してくれているように思える。そしてそれを自分自身の刺激し、さらには英知にしようと思い見学しているのが人物資料館である。今日も朝から元総理である故・原敬の記念館内であらゆる資料に魅入り、そして自分の中で実体化していた。総理となったひとだけにその熱意、行動力はやはりどれも感服するものばかりで、改めて為るべくして成った人であると思いながらその人生に触れていた。だが、政治という世界、恥かしながら自分にはまったくと言っていいほど分からない分野である。だが、その目標に向う熱意、それはどれも同じであろうし、自分自身の熱意であるその火を絶やさない為にも、それら故人からも刺激を受け燃えさせていた。

 原敬:盛岡藩士の子として生まれ、15歳の時、戊辰戦争の敗戦の屈辱を心に秘めて上京し勉学に励んだ。その後、新聞記者を経て明治政府の役人となり外務次官・朝鮮公使を歴任する。退官後も大阪毎日新聞社長とその腕力を振るい、そして政友会創立に参加、逓相・内相を経て第3代総裁となる。党勢を伸ばし、1918年(大正7)最初の安定的な政党内閣を組織、平民宰相と呼ばれる。東京駅南口で刺殺。(1856〜1921)

 そんな朝一の資料館入館であったが、しかし、その前にもハプニングがあった。それは朝まだ目覚めぬ5時くらいであっただろうか、ふと目を覚ました。何時だろうかと時計で確認したその直後、突然、地響きが起こりそれと共に横に大きく大地が揺れ動きだした。そう、地震である。あまりのその揺れに、もう完成しているとはいえ、工事中である高架の下でテントを張り寝ているだけにどうしても不安がよぎる。ここにいて大丈夫だろうか・・・ 逃げようかとも思いながらも、ただジッと静かに地震の収まるのを待っていた。そして数分後、その沈静と共にまた夢心地の世界へと入っていった。

 6時、今朝はやや遅い起床。今思うと先ほどの地震がまるで夢の中の事であるように思えてしまうが、しかしラジオから流れるニュースでは引っ切り無しに先ほどの地震のことを報じていた。ここからだいぶ離れた釧路沖での地震であるそうだが、しかし、その距離以上に揺れたように感じた。しかし、ホッとしている間はなかった、このあと7時、また新たに強い揺れが襲ってきた。またか!と驚きながらも、もう震源が分かっているだけに動じる事はないのだが、しかし、そう書きながらも私の中で一番嫌いな天災であるだけに気持ちはやはり張り詰めてしまう。この後も、また来るか?!とやや緊張した面持ちでPCと向き合い日記を書きながらも、大地の様子を窺っていた。


石川啄木。新婚の家


詩にも歌われた4畳半

 そんな今朝の目覚めであったが、しかしこうして資料館を観光しているころには、すっかりそんな事を忘れていた。この原敬記念館の後も観光は続いた。やはりこの福岡と言えば石川啄木は外せない。市中至る所に歌碑が建ち、、また一時住んでいたという”新婚の家”と呼ばれる住居が市街にポツンと残されていた。その建物の中に啄木の起居していた4畳半がある。狭く雑然としむさ苦しい部屋であったそうだが、片付けられた殺風景な今の様子からはそのようには感じられない。そんな部屋、啄木にとってはのんきで、最も幸福な部屋であったそうだ。「我が四畳半」と題して詩にまで読んでいる。そんな部屋にお邪魔しその小さな部屋にちょこんと腰を下ろしてみた。どんな新婚生活だったのだろうかと思いながらも、今の自分とも比べていた。だが、私自身の部屋とも言っていいのか分からないが、今はテントである。それも僅か1畳ほどの大きさで毎日、心苦しく夜を共にしているが、しかし、狭いながらも住めばやはり都である。そこが自分にとって唯一の自分の空間であり落ち着ける場所なのだ。それが4畳半だろうが、大豪邸だろうが私にとってはどうかわろうと一緒だろう。住めば都である。そう私は思うのだが、啄木はどう思いながらこの部屋で起居していたのだろうか、その詩から想像するしか今はない。


盛岡タイムス・大崎さん


朝日新聞・石井さん

 さて、この岩手の地でも広報活動。久しぶりの広報活動になり、うまくいくのだろうかと思いながらも各社に電話を入れるがやはり思うようには取材してくれない。しかし、それでも根気よく呼びかけ2社、取材に応じてくれることになった。どちらも気持ちよく取材に応じてくれ温かく支社に迎えてくれた。そして記者に自分のことを話すと共に、自分はこんなことを思い感じていたんだと、自分の発言ながら、自分に再確認し、時には驚き、また言ったからには遣り遂げなければというプレッシャーにもしていた。さらにはこうして地元の方と話できるのも嬉しく、ついつい雑談にも花が咲いく。こうして広報活動に意外に時間を費やしてしまったが、しかし、これも自分の旅”人に伝える”という目的のひとつでもあり、また、自分を再確認するきっかけにもなり、有意義な時間でもあった。


旧盛岡銀行本店
岩手銀行


まだまだ現役

 時間が徐々に押し迫ってきた。今日中に早池峰山の麓までどうしても行きたい。明日、登山したいからで、これを明後日にしてしまうと、中途半端な時間がどうしても空いてしまう。その登山口までは距離的には大したことないのだが、峠越えがひとつ待ち構えているだけに余裕を持って早めの出発をしたいとおもいながらも観光はまだまだ続いていた。盛岡の町並みをフラフラ散策しながら次の観光地へと向う。所々に旧宅が残り、都市と言えども赴きある町並みを残していた。その代表的例が昨日みてまわった寺町通りなのだが、しかし他にもホッとさせてくれるような日本建築をそのまま残す商家など多数残っていた。そんな歴史の遺物の筆頭は今向っている”旧盛岡銀行本店”ではないだろうか。明治44年に建てられたこの煉瓦造りの建物は国の重要文化財にも指定されているのだが、しかし今でも現役で岩手銀行として業務を続けている所でもある。さっそく店内を散策。今の近代的な銀行業務が昔そのまんまの建物で違和感なく溶け込んでいるんだろうか、そんな関心がある。しかし、その店内は予想に反して違和感なく運営されていた。いや、逆に赴きすら漂っていたのだが、しかしこれだけは・・・ と思ったひとつは蛍光灯。白く眩しいほど輝くその光はこの建物には明るすぎ、また白い光がどうも建物とマッチしない。そしてもうひとつ、これは逆にあまりの滑稽な姿に思わず笑みをこぼしてしまったのだが、それはATMだ。このような建物にはやはり不向きであり、また元々はない物だけにそれを置くスペースも設けられていない。そのため階段下のちょっとした開いたスペースに申し訳なさそうに置かれていた。雰囲気もうだいなしだ!と言いたいところだが、しかし逆に私には面白くそれは写り、今ならではの光景なんだと、なんだかホッとする場面でもあった。


郷土資料館見学


旧中村家住宅

 さて、これで盛岡市街を後にするつもりでいたのだが、しかし、この後に立寄った観光案内所で面白そうなところを見つけてしまった。そこは郷土資料館。もう県立博物館を見学していたので改めて見ることはないだろうと思っていた所で、また考古学の展示が主ではとも思い、外していた場所なのだが、案内パンフレットを見れば見るほどそこに興味が湧き、気付いた時には時間を忘れ資料館へと足を運んでいた。そこは主にこの岩手の大部分を統治していた南部藩について詳しく述べられていた。また商家である中村家もここに移築保存され、見所は多く困ってしまうほどであったが、しかしそれが嬉しくてたまらない。結局、時間を忘れて魅入ってしまい、退館したのは14時過ぎ、それから、昼食、本屋、雑貨屋など買い物を楽しんでからの盛岡市街の出発であっただけにこの時にはすでに15時をまわってしまっていた。日暮れまでに到着できるだろうか・・・ やや焦りながらの市街を抜けていった。

 国道4号を南下。紫波町で登山の食糧を調達して県道25号を使いいよいよ山岳部へと入る。ひとつ大きな峠を越え、そして今日の目的地、早池峰ダムへと急ぐのだが、その坂が思った以上にきつく、標高はグングン上っていく。こんなことなら南へと迂回し、峠を避け川沿いにダムを目指して上ってくるべきであったと後悔しながらも今さら引き返すわけにも行かず黙々と坂と向き合っていた。しかし、交通量がほとんどないことには救われた。道は1車線と狭いが、車がほとんど通らないお蔭で、その道を精一杯気兼ねなく使いながら自転車を漕ぎあがっていくことができる。ただ、その分、”熊”も多そうだ。今日の取材の時、「今年は特に被害が多いから気を付けてくださいね!」といわれたことを思い出させる”熊注意”という看板がそこら中に立ち、緊張感を高めていたそのとき、目の前に巨大な物体が・・・ 驚かせたそいつはなんとカモシカであった。共に様子を窺うような形でしばらく睨み合い、そして「あっ、写真」と思い一動作入った時にはカモシカはのんびりと振り返り藪の中へと消えていった。久しぶりのカモシカとの対面にちょっとドキドキしながらも、なんだか嬉しくなり、この後は気持ちよく峠目指してこぎあがって行った。

 すでに日は沈み、町明かりは夜景へと変わりつつあるにも関わらず未だに峠はやってこない。町を見下ろせば「もうこんなに登ってきたのか!」と驚くほど標高をグッと稼いではいるんだが、しかし峠はまだまだ上のようだ。さすがに途方に暮れてしまいそうになりながらも、薄暗くなりつつある寂しい山道をひとり漕ぎあがっていた。1時間以上、その坂と格闘していただろうか、ようやく峠を越え、後は一気に駆け下りれば、そこは早池峰ダムであり、また目的の道の駅・早池峰がある。さすがに汗を掻き服は濡れているだけに下りは寒さで耐え難いほどであったが、峠を越えたという達成感から、寒さよりもその喜びが増し、震えながらも気持ちのよい下りとなった。すでに1番星は光り輝き、闇が辺りを覆い始めていたが、それでも気持ちよく漕ぎ進んで無事に18時、道の駅へと入った。そしてそこはまた嬉しいことに24時間開放の休憩室があり、また温かい♪逃げるようにして駆け込み、今日の疲れを足を延ばし癒していた。


夕日が映し出す我が身


いつの間にか見下ろす町


夕闇の早池峰ダム湖

 この道の駅、まわりは峠道で覆われどれも県道である。ダムが目の前に聳えるものの、民家は一軒もなく怖いほど静かなとこで、もちろんそんなところだけに交通量もまれであり、その寂しさを物語るように誰も居ない静かな道の駅であり寝床には申し分ない。ただ、やや電気の明かりが気になはなるが、そのまま休憩室のベンチで横になり就寝することにた。もちろんその前にPCと向き合ってからのことだ。しかし、書き終える前にやはり睡魔が遅い、結局21時半ごろ断念し就寝についたのだが、しかしこの後、思いもしない騒音に悩まされるとことになる。23時頃からだろうか、もの凄い爆音で目が覚める。そして”キキキッー”とタイヤをこの道の駅目の前で鳴らし始めたのだった。時にこの休憩室で集まり雑談しては、また走りに出て行く。それが2時過ぎまで続くから寝れたものではなかった。ただ、怖いということはなかった。自分も同じようなことをしていた時期が実はあり、苦笑いしながら彼らの様子を窺いながら寝袋にくるまっていた。明日、まだまだ坂が残り、さらには登山も待っていると言うのにいつになったら寝れることやら・・・

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 ★今日のお食事♪
 ・朝食 : すき屋(朝定食)
 ・昼食 : 吉野家(牛丼)・パン
 ・夕食 :

ごはん・さんま

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