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更新日時 03/10/17 17:51
本日のデータ
日付
10月14日
天気
晴のち雨
旅行日数
464日目
体調
良好
本日の移動
 喜多方市〜会津若松観光〜磐梯町
走行距離
52.9 km   
現在地
福島県磐梯町
総走行距離
20952.2 km   
宿泊地
おおるり公園
今日の出費
食費
764 円    
宿泊費
0 円    
観光費
990 円    
雑費
315 円    
経費詳細

 観光費:旧滝沢本陣(300円)・白虎隊記念館(240円)・鶴ヶ城天守閣・茶室麟閣共通(450円)
 雑費:乾電池・汎用袋など




16、17歳の人たち

 さあ、今日は前々から楽しみにしていた会津若松の観光だ。幕末・明治という変動期が好きなだけに、またそこで生まれた数々の人間ドラマ、悲劇、そしてその力のエネルギーが好きなだけにこの会津への観光へと気合が入っていた。ただ、実はこの会津の歴史については他に比べ詳しくは未だに知らなかった。どんな歴史をたどったのか、興味を膨らませ、今日は早い7時過ぎには自転車を会津に向けて走らせていた。ちなみにそんな今朝は日の出と共に5時半に起床。しかし11時間近くも寝てしまっている。日記が溜まっているだけに後悔も大きいが、しかし悔やんでもいられず、慌てて日記を書き始めるが、しかし、辺りを行き交う朝の散歩する人たちの目線が気になり、途中で切り上げてこの時間の出発となった。


旧滝沢本陣

 会津まで15kmほどだろうか、昨日とは打って変わって晴れ間ものぞく最高の朝、気持ちよく自転車を漕ぎ進めるのだが、しかし、夕方から天気は下り坂という。それまでには寝床を見つけたい、今日は少し早く切り上げる為にもこうして早くから必死になって会津の市街へと入って行き、そして最初に観光したところは、会津の中心的観光地のひとつ、白虎隊関係の史跡めぐりであった。旧滝沢本陣、白虎隊記念館、戸ノ口洞穴、さざえ堂、白虎隊士の墓、そして会津市街を見下ろす白虎隊自害の地を歩いてまわった。すべて白虎隊の悲劇が生まれた飯盛山の山腹から山麓にかけて点在し、また史跡以外にもお土産店も並に並び、そして団体客で渋滞するほど朝から賑わいも見せ、全国的、また世界的にも名高い地であることをそんなことからも実感することができた。そんなたくさんの方が史跡を訪れる白虎隊とは、1868年の戊辰戦争のおりに会津藩が組織した藩士の子弟の隊の一のことで、16、17歳の年少の人たちで組織されていた。しかし奮闘空しく迫り来る官軍との戦いに敗れ、城に退却するべくこの飯盛山まで退却してきたが、しかし、城下の炎が上がるのを見て、会津城が火煙に包まれて落城しているのかと誤認し、この地で残った白虎隊士20人が自害を試み、ただひとり、後から駆けつけた夫人により蘇生した以外は他は自害し果ててしまったという、言葉を失うほどの悲劇であった。今も誤認してしまった城はここから、はっきりと見ることができた。

 旧滝沢本陣:参勤交代の休憩所となっていたこの地も、幕末の動乱期には会津戊辰戦争の大本営となり、藩主・松平容保公が白虎隊に出陣を命じたところでもある。現在も残るこの建物内にはたくさんの銃紺、刀傷が至る所に残っていた。
 戸ノ口洞穴:今から460年前元和年間に猪苗代湖の水を会津地方に引きために飯盛山の山腹に人工的にあけた水道で、戊辰戦争時にはあの白虎隊が戸の口原からの退却路に使い、この飯盛山山腹へと出、本文にも書いたとおり、城が燃えていると誤認し皆が切腹した地でもある。


旧滝沢本陣内にて


白虎隊記念館


戸ノ口洞穴


さざえ堂(国重文)


白虎隊が最後に望んだ
会津の町


白虎隊士の墓



入館断念・・・
会津武家屋敷

 会津観光はまだまだ続く。自転車を南に走らせて、お次は”会津武家屋敷”へと向ったのだが、しかし、ここでちょっと入館料と相談・・・ 戊辰の戦火により消失した武家を甦らせたこの施設前でパンフレットを貰って行ったり来たりしながら迷いに迷うが、しかし最後は断念。他にも面白そうなところがあるため、そちらにお金を注ぎ込む事にし、今度は県の全体の歴史を見ようと巨大でいかにも真新しい建物の県立博物館へと足を運んだ。どの県の県博も値段が安く、それでいて資料が豊富で展示にも力が入っているために面白く、この福島も大いに期待して向ったのだが、しかし、なんと定休日である。肩をがっくり落とし、明日があるさ・・・ と自分に言い聞かせるが、その為には今日この市街付近にて野宿する必要が出てくる。どこかよいところはないだろうかと市街を今までも物色しながら走ってきたが、なかなか見つからない。さらには期待していた会津本郷町のキャンプ場も調べてみれば、なんと値段は3000円・・・ 論外なその値段に驚きながら、また仕方なく野宿場を探しながら観光を続けて向った先は会津のシンボル、鶴ヶ城である。5層の巨大なその城はどこから見ても優美であり惹かれるままに入城。鉄筋コンクリートの復元ではあるが、資料は豊富で見応えはあり、また隣接する長屋は見事に当時の作りで復元されており、その様にに目を奪われるものがあった。この後も見学は続いた。城公園にある茶室麟閣、白虎隊を見事に再現して躍る白虎隊演舞、そして滝廉太郎が作曲し土井晩翠が作詞した名曲・荒城の月碑。もちろんここ鶴ヶ城が舞台になっているという。そして城を離れれば、江戸期に天文観測を行なっていたという天文台跡、そしてどんな人物だろうと興味深い”野口英世青春通り”を走りぬけ、今日の観光を終えることとなった。

 鶴ヶ城:1384年に葦名直盛が東黒川館を築いたのが始まりとされ、その後、会津領主だった葦名盛氏改築し、現在の城郭の原形を築いた(黒川城)。戦国乱世をほぼ追え、豊臣の天下となる1593年には蒲生氏郷が入国し、7層の本格的な天守閣を築き、名前も現在も親しまれている「鶴ヶ城」と改められた。しかし、1611年会津を襲った大地震で天守は大きく傾き、その改築の結果、現在のような城郭が作られたそうだ。ちなみにその後、戊辰戦争時には約1ヶ月の篭城戦の場となるのだが、戦い抜いた鶴ヶ城も損傷激しく明治7年に取り壊された。


鶴ヶ城


鶴ヶ城の堀


鶴ヶ城


白虎隊演舞


茶室麟閣にて


茶室麟閣散策



会津の蔵の町並み


会津慈母大観音

 さすがに街中だけに寝床が見つからない。贅沢を言わなければなくはないのだが、しかし、人目に付きやすく補導されそうなところばかりであり、また周辺住民にも不安を与えかねなく、迷った末に思い出したところが、この会津へと来る時に見つけた小さな河川公園。やや市街からは遠くはなるが仕方がないと諦めながら国道を北へと戻るのだが、しかし、その肝心の公園が見つからない。自分が思っているよりも予想以上に喜多方よりの様で、さすがに遠すぎると途中で引き返し、次に向った先は地図を頼りに”おおるり公園”という市外の公園へと走らせた。もうこの時にはあまりに県立博物館から離れすぎ、もう明日の見学を諦めつつあった。また他にも観光したいところが多々あり、時間的にもやや辛いものがあったのもその理由だが、しかし、現実の今はもうそれど頃ではない。時間的にはまだ16時前と早くはあったが、しかし空は今にも落ちてきそうな雨雲が張り詰め、さらにはすでにもう日は落ち始め辺りは暗くなり始めている感もあり焦り始めていた。慌てて自転車を漕ぎ進めるが、おおるり公園までの道は容赦ない登り坂がひたすら続き、あと公園までもう少しというところまで来ているのだが、なかなかその距離は進まず、とうとう雨がポツリポツリと落ちてくる始末であり、さらに慌てて漕ぎ進める。右手には50mほどあるだろうか、驚くほど巨大な慈母大観音を横目に漕ぎ進むとようやくおおるり公園へと入っていった。


ようやく寝床へ・・・

 雨を凌げるような丁度よい東屋はあるだろうか、水は?トイレは?不安ばかりがよぎるが、しかし、雨が容赦なく降り始めているだけにもうここしかない、泊れそうな公園でありますようにと祈りながら薄暗くなりつつある中、公園内へと入っていった。しかしそこで迎えてくれたのが、管理棟。小さな公園だろうと期待してのことだったが、意外に大きな運動公園に驚きながら、しかしここしかもうなく、勇気を出して管理人さんにお願いしてみることにした。こうしてお願いするのは初めてではないだろうか、自分から「泊めて貰うことできますか?」とお願いすることである。断られたらどうしようと不安になりながらも訪ねてみると、何の迷いもなく快く、「それなら、奥のステージのところがいいよ!雨も防げるしね。」と進めてくれ、 ホッと一安心。大きく頭を下げてお礼を言い、やや奥まった広場にあるステージ上にテントを設営し、こうして無事に今日も落ち着くことが出来た。この後は溜まった日記を出来るだけ書き終えようと、コーヒー、紅茶を切らすことなく飲み続け睡魔と戦い、23時過ぎまで今日は珍しく起き続け、ヘッドライトの明かりを頼りに日記を書き進めていた。

※この日記の写真をクリックすると拡大写真が表示されます。

 ★今日のお食事♪
 ・朝食 : 三治さんの手作り弁当♪
 ・昼食 : パン・コンビニミニ弁当
 ・夕食 :

喜多方ラーメン(もやし入り)・ごはん

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